亀有キリスト福音教会

東京都足立区東和1-17-20

60年以上にわたり地域にひらかれたキリスト教会として、バザーやコンサートやセミナーなどを活発に開催する教会です。育児サークルや手芸サークルなど文化活動も積極展開しています。はじめての方でもお気軽にお越しください。インターネット礼拝配信中。

『いのち溢れる交わりに生きて』

認知症対応型共同生活介護施設 「グループホーム福音の園・川越」
ホーム長 杉澤 卓巳 氏 

ヨハネ第一の手紙1:1~4


<聖書のみことば:ヨハネ第一の手紙1:1〜4

1.私は、この世界が造られる前から存在しておられたキリストをこの目で見、そのことばをこの耳で聞き、その体にこの手でふれました。キリストは、神のいのちのことばです。

2. このいのちである方は私たちに現れ、私たちは確かにこの方を見ました。私が伝えたいのは、永遠のいのちである、このキリストのことです。キリストは初め、父なる神と共におられましたが、やがて私たちの前に姿を現されました。

3. 私たちは実際に見聞きしたことを伝えているのです。それは、あなたがたが私たちと同じように、父なる神やそのひとり子イエス・キリストと交わることができる者となるためです。

4.この手紙を送るのは、あなたがたが喜びに満たされ、それによって私たちも共に喜びたいからです。
(リビングバイブル・ヨハネ第一の手紙1:1~4)


はじめに


 愛媛県、千葉県、そして埼玉県内にありますホーリネスの教会で12年間伝道牧会をいたしました。25歳で牧師として第一歩を踏み出しましたキリスト教会は、若い人が少なく、高齢者の信徒が半数以上を占めていました。7年間務めたこの教会での様々な経験が、キリスト者としての私自身の方向性を確実なものにしました。今から30年以上も前に「教会の高齢化問題」を、身を持って体験いたしました。そして、キリスト教会における高齢者問題のために秘かに祈るようになっていました。

 1月の、ある主日礼拝で私は講壇から、準備した説教原稿には書き記していなかった「マタイの福音書9:13」が心に示され、繰り返し「行って学んで来なさい」と語っていました。

12「イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。

13『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 「行って学んで来なさい」。イエス・キリストがどんなにあわれみ深い方であるかを高齢者ホームへ行って学んで来なさいと語り掛けて下さったと確信することができました。「二兎を追う者は、一兎をも得ず」-「二足のわらじを上手に履く」という器用なことが出来ない私です。この聖書の御言葉を握って、私はその年の3月末日をもって「日本ホーリネス教団教職」を辞任いたしました。

 茨城県旧水海道市にあります「筑波キングス・ガーデン」に続いて、埼玉県川越市に、全国2番目にオープンする「特別養護老人ホーム 川越キングス・ガーデン」に介護ヘルパーとして就職いたしました。1991年4月のことですから、もう24年も前のことになります。


「『わたしが好むのはあわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」と御言葉に押し出されて歩んでまいりました高齢者福祉の現場から学び得ました恵みの数々を、この朝、そして、午後の「第3回 介護のやすらぎカフェ」で皆さまにお証しさせていただきたく準備してまいりました。

1.交わりの根拠は、一番醜いところで一つになって下さるお方

 聖書は、私たちに「交わりにあずかる」ことがすべての人にとって最も幸わいな生き方ですと告げています。“今さら神さま、イエス・キリストさまだなんて私の生き方には馴染まない!”-という遠慮や反論の余地など与えないほどに「それは、あなたたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになる」ことが、最も幸わいな生き方ですと、私たちに勧めています。

 私は現在、「認知症」という病気のために日常生活もままならず、ある意味で仕方なく「ホームへ入居し共同生活」を余儀なくされた「認知症高齢者専用ホーム」で仕事をしております。認知症という病気により人間の尊厳まで消されてしまったような高齢入居者18名の方々をみんなでお世話させていただいています。けれども、これは何も特別なことではないと感じるようになりました。何故ならば、すべての人が、人生の晩年には例外なく「学歴や職歴、業績(名誉)」と云った一切の肩書きを脱ぎ捨てることになるからです。丁度、女性の皆さまが、洗顔フォームで化粧を洗い落とすようにして「スッピン」になります。一切の肩書きを脱ぎ捨てるとは、

 「学歴や職歴、業績(名誉)」と云った「鎧よろい・兜かぶとを着て装(よそお)って生きてきた生き方に終止符が打たされる」ことを意味しています。そして、身体的・精神的な弱さや醜さがあらわになる、文字通り「地が出る」と云うことを意味しています。
有名な聖書の言葉『神は、その独り子をお与えになったほどに、この世(この私)を愛して下さった』
と云うときの「私」とは「素顔の私」です。「スッピンな私」が愛されているのです。

 ところで、神が私たちと会い、私たちと一つになって下さる。神が私たちと一つになって下さると云うときに、私たちの生活のどこか高いところ(高尚なところ)、美しいところ、神にちょっとばかり近いところで、私たちと一つになっていて下さるのではありません。ここに、この朝、皆さまにお話しさせていただく「いのち溢れる交わりに生きる」根拠があります。

 私たちは、人と付き合うと云うときに、この人と自分とは一つだと思うことがよくあります。けれども、大抵の場合、この人と自分は一つだと思うときに、美しいところにおいての一致を体験しているものです。高いところにおいてなのです。その人の一番深い悲しみにおいてではありません。その人の醜さや欠けが、すっかり裸になってしまったときのことを想像してみて下さい。そこで「私はこの人と共にいるんだ」ということを言い切ることが、果してできるのでしょうか。

 私たち、信仰を持っているキリスト者は、教会で仲良くします。教会に来れば、みんな和気あいあいとして、兄弟姉妹の交わりをいたします。ところが、そういう教会的だと思われる中で、誰かが大きな声でも出そうものなら、それこそ教会らしからぬことが起こったと思うのです。そこで、目が覚めるようにして気が付くのです。和やかな、暖かな私たちの人と人との交わりの中でも、結局は外面だけの、結局は上っ面だけの、存在の上の方の美しいところ、上品なところ、どこか高いところだけの、共感であったり、助け合いであったりすることが、実にしばしばです。

 ですから、教会は人間の醜いものがちょっとでも噴き出したときに一挙に崩れるというもろさを持っています。そして、そのときに私たちが悟らされるのは、教会が十字架を忘れているということです。「よく解りました。それでは私たちは、お互いが一番深いところで共感できるようにしましょう!」、「一生懸命にお祈りをして、兄弟姉妹が一致できるようにしましょう!」などと「一致団結する」。私たちはそんなことをする必要はありません。

 何故ならば、イエス・キリストが私たちの一番醜いところにおいて、私と一つになり、あなたと一つになっていて下さるからです。ですから、私たちが本当にお互いに、教会の交わりを作り合うことができるのは、お互いがお互いをよく知っているとか、信頼しているとかということではありません。その人の一番醜いところにおいて、その人と一つになっていて下さる、イエス・キリストを信じるという事以外に、お互いの交わりを作る道はないのです。これが「いのち溢れる交わりに生きる」根拠です。

 そのときに、私たちは、自分は自分で人を愛することができるとか、人を理解することが出来るなどという傲慢から解き放たれます。さらにまた、それとは反対に自分は人を愛せない、自分は人と一緒に生きることなんか出来ないんだと嘆かなければならない貧しさからも、解放されるのです。

2.心痛める、一日限りの「敬老の日」


 先月、私たちは「敬老の日」をお祝いしました。私は、一年365日毎日が「敬老の日」であるべきなのに、9月の第三月曜日、一日限りの「敬老の日」で終わってしまっていることに心痛めています。特に、高齢者ホームで直接にお年寄りの方々をお世話させていただく仕事をしておりますと、「年老いた親と成人した子ども」と云うこじれた親子関係、こじれた家族関係に度々直面いたします。

 現在、認知症の病気を患 わずらっ た高齢者の方々をお世話させていただく「グループホーム」介護サービス事業と、日中通いの高齢者をお世話させていただく「デイサービス」介護事業を行なっています。私は、朝8:35 ホームの車を運転し、日中通いでご利用下さる方のお宅まで高齢者を迎えに参ります。ある朝、車のラジオから「テレホン身の上相談」が耳に飛び込んできました。50代の主婦からの相談でした。義母との同居はしないと云う条件で再婚したのに、義姉妹の急病などから長男である夫が義母を引き取ることになりそうだ。同居する位なら離婚する決意だ。どうしたらいいでしょうか?と云う相談内容でした。一日限りの「敬老の日」で終わってしまっている現実を目の当たりにしました。

 「敬老の日」の根拠は、聖書の御言葉です。旧約聖書の出エジプト記20:12「十戒」の中の一節です。

「父と母を敬いなさい。そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる。」

そして、新約聖書のエペソ人への手紙6:2~3です。これは開いてみましょう。

2「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。

3 すなわち、『そうしたら、あなたは幸せになり、地上で長生きする』という約束です。」

 「父と母を敬いなさい」-もう耳にタコが出来るほど聞き飽きている御言葉です。ところが、お年寄りが大切にされていない。同居する位なら離婚する決意だ、とまで云われ、粗末にされ、蔑 ないがし ろにされている現実。こじれた親と子。こじれてしまった家族関係の原因は、他でもない私たちキリスト教会の責任、「キリスト教会の社会的責任である」と痛感するようになりました。
2節と3節が一つになっています。セットになっている御言葉です。それなのに、いつの間にか「父と母を敬え」という部分だけが独り歩きしてしまいました。独り歩きしてしまった「あなたの父と母を敬いなさい」と云う部分だけの御言葉でしたら、「今は忙しくてダメです。都合が悪くてダメです。子供を置いて出て行った親を敬え!なんて出来っこない」という様に、「都合が悪かったら、条件が揃わなかったら大事にしなくてもいい」という理屈が成り立ちます。十分、子供の側に反論の余地を与えます。先程のラジオ「テレホン身の上相談」内容のように、「義母との同居はしないと云う条件で再婚したのだから」この約束、この条件が反故 ほご にされてしまうのだったら、大事にする必要はないと云う理屈が誠 まこと しやかに成り立ってしまう。そして、世の中の「世間一般常識」となりつつあるからです。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 果してそうでしょうか? もう一度申し上げます。2節と3節が一つになっている。セットになっている御言葉ですから切り離せません。聖書は、父と母を大切にしたら、父と母・両親が長生きするとは言っていないのです。父と母を敬いなさい。そうすれば、「あなた自身が」幸福になり、「あなた自身が」地上で長く生きることができると約束しているのです。両親の幸福と私自身の幸福は、表と裏、表裏一体なのです。相反するかに見える二つが根本では密接につながっているのです。
ところが、この点が見過ごされてしまい、きちんと後半部分が語られることもなく現在に至ってしまいました。「あなたの父と母を敬え」と命令口調の、厳しくなおかつ堅苦しいだけの「戒め」と思いきや、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という確かな「約束を伴う」優しさに満ちた聖書の御言葉であることに驚嘆します。まさに聖書の真理です。

 今、ここに私が存在している。そのためには私の父と母とが居てくれたお陰だ。その父もまた、母もまた、それぞれに父がいて母がいた。私の幸福、あなたの幸福は、両親の幸福と表裏一体。密接につながっている。長い 長い人の営み・歴史の中で、現在の私が、そしてあなたがここに存在しているのです。

 2節と3節は切り離せません。切り離せないということは、都合が悪かったら親は敬わなくてもいい、条件が揃わなかったら敬わなくてもいい、という理屈や反論を挟む余地などないほどに「すべての人が心得なければならない人間としての本文(至極当然な努め)」なのです。これが、聖書の告げる私たちに対するメッセージです。
しかしながら、「そう言われても、私には無理です。父と母を大切にすることが、即ち自分を大切にすることだという聖書の言わんとしているところは良く分かりました。でも、心に負った深い傷がある限り、心から親を敬えない現実が立ちはだかっています!」と反論されてしまいます。心からお察し申し上げます。其々が負わされてきた、重く、辛かった心の傷は、そう簡単に癒えるものではありません。

 新聞朝刊のコラム欄に、次のような一文がありました。「自分のことは針で刺されても痛いと騒ぐ。
なのに他人には槍 やり を突き刺しても平気でいる。大なり小なり人が持つ性 さが だろう。人の痛みに気づくには、気づかせるにはどうしたらいいのかと、心ある大勢が悩んでいる。」。単なる同情や共感位で、いとも簡単に癒されるものではありません。私たち人間の努力や、哲学的な悟りなどでは、この負わされた心の傷は癒えることはありません。唯一、私たち人間を創造して下さった天地万物の創造主
つくりぬし なる神による以外に解決の道はありません。

 聖書は、「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)と告げています。本物の「癒し」が、十字架による「神の痛ましい手続き」によって私たち一人びとりに届けられました。イエス・キリストの十字架により、直接、神のみ手によって解決していただく道が用意されたのです。

 キリスト教とは、イエス・キリストの立派な教え、それに伴う高尚・模範的な生き方にあるのではありません。イエス・キリストとのご人格なる神との親しい交わりです。「私たちの交わりとは、御父ならびに御子イエス・キリストとの交わりです」。イエスというのは、架空の人とは違うと言っています。

 この目で見て、この耳で聞いて、この手でさわった方、歴史の中を確かに歩んで下さったお方との親しい交わりです。このお方「御父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」から、私たちの心が優しく変えられていく生き方。自分のためだけに生きてきた、自分のためだけに働いたお金を使ってきた生き方から、さらに困っている人のためや社会的弱者と呼ばれる人たちのために心を注いだ生き方へと変えられていくのが、私たちキリスト教信仰に生きるクリスチャンの「標準的な生き方」なのです。
「初めに、御父ならびに御子イエス・キリストとの交わりありき」が在るべきキリスト者の姿です。

3.「継母への悪態」の呵責から心癒された「救いの証し」

 これまで「私は雪国・新潟県出身です」と自己紹介して参りました。ところが、3年前の東日本大震災以降、自己紹介の内容が変わりました。「私は、東京電力・柏崎刈羽 原子力発電所から半径25キロ圏内に位置する、雪国・新潟県出身です」と、より具体的な自己紹介をするようになりました。

 小学生の時でした。学校から帰って、ランドセルを玄関先へ置いて遊びに行こうとしましたら、敷居の上に「キリスト教パンフレット」が置いてありました。「子供向けと大人向けトラクト」でした。
(後に判明したのですが、新潟県柏崎市に教団本部と聖書学院を置くキリスト教団体の牧師や神学生、キリスト信者の方々が「一斉トラクト配布」をして下さり、私の家にも届けて下さったのでした)。
ある日の夕食の席で一つの事が話題になりました。私が思わず「そんなこと、誰も見ていないんだから分かりっこないよ!」と歯切れよく、啖呵を切ったように話しました。すると、2歳下の妹が私の言葉を打ち消すように、「兄にいちゃん、何言ってるの。天の神さまが見ているんだよ!」と、私は妹に諭さとされました。妹は、配布された「子供向けトラクト」を手に取って、繰り返し読んでいたのでした。

 私の母の実家は「タナカ」と言うのですが、黒い霧で世の中を騒がせ、政界から消えて行ったある国会議員と親戚関係にありました。その当時、この国会議員の不正の数々が明るみに出まして、新聞やテレビと云ったマスコミが一斉に暴き始めました。そこで、証拠となる帳簿類を深夜コッソリと東京の事務所から新潟県にある生家まで運び出しました。よく言われるところの証拠隠滅を図った訳です。

 ところが、逮捕されてしまいました。私は、一部始終をこの目で見ていた訳ではありませんでしたが、親戚の者からこうした事実を聞かされておりました。多感な年齢の私が深く心に感じたのは、「世間の目は誤魔化せても、お天道さまには全部お見通しだ!」という神仏に対する畏敬の念とでも言うのでしょうか、厳粛な思いをそこで体験いたしました。やがて「聖書」に出会いました時に、お天道さまどころではない、そのお天道さま、即ち太陽をはじめとした、この天地宇宙を創造され、そして、私たち人間を造られた創造主なる、絶対者である神がおられることをそれほど抵抗なく信じることができました。やがて、高校3年生の時に洗礼を受け、キリスト教に入信いたしました。今から43年前になります。

 私を産んでくれた母と云うのは、私が小学1年生の時にガンを患い、私と妹を残して他界しました。
しばらくして父は再婚しました。私と妹は新しい継母に育てられました。18歳で洗礼を受けた私は、しばらく経ってから、「イエス・キリストの十字架による罪の赦し」を体験することになりました。

 8月下旬のある日、家が農家でしたので、お米を収穫する「稲刈り」を手伝っておりました。実った水田に入って汗だくになって作業しておりました。数メートル先で黙々と働いている継母の姿に釘付けにされました。すると、この継母に対する私の悪態(憎まれ口)の数々が走馬灯のように、次から次へと眼の前に映し出されたのでした。心の中が重い鉛のような、何とも表現の仕様が無いほどに辛く、居たたまれない気持ちになりました。棒立ちの姿勢のまま、心の中で「イエスさま」と叫びました。
すると「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と、十字架の上で祈られたイエス・キリストの言葉が私の心に囁 ささや かれました。次の瞬間でした。私の心を占領していました鉛のような罪責感が、雲霧が晴れるようにしてきれいに消えて無くなったのでした。この瞬間に、雲の上の遠くて崇高な「世界の救い主」であったイエス・キリストが、私のすぐ隣りに居て下さる、いや私の内に居て下さるお方になって下さった。そして、遠慮することなく、親しみを込めて「私のイエスさま」と呼んでお祈りができる「私の救い主」となって下さったのです。

 この日、私は聖書の「救い」について「折伏」(仏教語で、教導の方法の一つ。相手を強く責め立てて迷いをさまさせること)されたのではありませんでした。今から2千年前、歴史上の出来事であった、十字架の上で発せられたイエス・キリストの言葉を聞いた目撃者によって記録された「聖書の言葉」を、この心・魂の部分で、私は直接に聴きました。そして、苛 さいな まれた罪の呵責 かしゃくから解放されたのです。

 「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」。

この日、「本物の癒し」を体験いたしました。「イエス・キリストの十字架による罪の赦しの実体験のないところに、宣教は成り立たない」と云う言葉があります。神さまがこの私にして下さったこと、イエス・キリストがご自分の方からこの私にして下さった「救いの喜び(救いの実質)」を、この朝、皆さまにお証しさせていただきました。

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 日本人が抱いている宗教体験は「お百度を踏む」、「流れ落ちる滝に打たれる」、「洗い清めた身体を鞭打って難行苦行に励む」、「食を断つ・断食」などと云った具合に、心身を集中し高めて行った、まことに高いレベルにまで昇り詰めた その所で、神仏と出会うことが出来ると認識しています。

 ところが、私の場合は真逆でした。継母を愛し得なかった罪「人間の悲惨」に気付かされて、自らの心の惨めさにホトホト参ってしまった。二進 にっち も三進 さっち も行かなくなって行き詰まった。そこにおいて、イエス・キリストがご自分の方からこの私に手を差し伸べて下さった。実に神さまの方から低きに降ってきて下さり、悶々とした心境の中で聖書に記されたイエス・キリストの言葉を聴くと云う、宗教体験だったのでした。決して、神秘的で高揚した心持ちの中で体験したのではありませんでした。

 私たちの生活のどこか高いところ、美しいところ、神にちょっとばかり近いところで 神さまが私たちと一つになって下さるのではありません。イエス・キリストが私たちの一番醜いところにおいて、私と一つになり、あなたと一つになって下さるお方なのです。これが「イエス・キリストによって示される愛」です。

 「愛し得ない罪が浮かび上がる」場面の一つが、例えば、この午後、お話しいたします「老いた親を介護する場面」です。そして、その老いた親が他界したところで起こる、遺された家族の「遺産相続(争続)の場面」です。 普段は波風立たなかった心の中が、ある日、ある瞬間を境にして、ムクムクと「心の中の醜い部分」「愛し得ない罪が浮かび上がって来る」。顔を背 そむ けたくなるほどに内面の醜さに気付かされる、その時が「ピンチであっても人生最大のチャンス」になります。イエス・キリストによって示される愛とは、愛し得ない罪「人間の悲惨」に気付かされた瞬間に示されるイエス・キリストの愛 だからです。

おわりに

 「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」。

この聖書のみ言葉は本当です。私も「キリストの打ち傷のゆえにいやされた」一人です。父と息子、母と娘、夫と妻、兄と弟、姉と妹。人生色々です。この午後に開催されます「第3回介護のやすらぎカフェ」 テーマは『本音で語ろう! 介護をする心のうらおもて ~ありのままを大切に』です。「介護の現実的な疲れや辛さにある人同士が、主にある交わりやみことばを通して、介護の意義を理解し、安らぎや喜びを与えられるひとときとなるように」と云う開催目標が掲げられています。本音で語り合えるひとときとなることを願って、準備してまいりました。

 若い人も、働き盛りの人も、そして、人生の様々な修羅場を生き抜いて来られたに違いない中高年の人も、こじれた人間関係の中で、人は皆 もがき苦しみます。何とか解決できないものか、解決方法を模索しながら、ある人は難行苦行の旅に出ます。また、海外へ飛び出していきます。また、趣味の世界に没頭して心の呵責を忘れよう、逃れようとします。そんな遠回りをしなくても良いのです。
「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」と告げる聖書のみ言葉を体験して、心の傷を癒していただいた私は、皆さまに心からお勧めすることができます。あなたにも解決の道、「癒される道」があります。必ずや、あなたも癒されます。
但し、その「癒され方」は「人生色々、百人百様、人それぞれ」です。あなたの「癒され方」は厳粛な神さまの み手の中にあります。あなたにも、聖書が告げる私たちの交わり、「御父ならびに御子イエス・キリストとのいのち溢れる交わりに生きて」下さるようにと、心からお勧めいたします。

一言、お祈りをさせていただきます。

(2014.10.26 杉澤 卓巳)


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