『キリストは尊き生ける石』
「主は、人には捨てられたが、神にとっては、選ばれた尊い生ける石である。」
「この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築きあげられ、聖なる祭司となって、イエスキリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。」
ペテロ第一の手紙には「生ける…」との言葉が数回用いられています。
そのうちの3回は「生ける望み」(1:3)、「生けるみ言葉」(1:23)そして今回の「生ける石」(2:4)です。
「生ける」とは主の復活を根拠にしている言葉です。
なぜなら石が生きているとは普通は表現しないはずだからです。
それではこの石は何を意味しているのでしょうか。
第1に「生ける石なるキリスト」、
第2に「生ける石なるキリスト者」
としての2種類の「生ける石」を見ていきたいと思います。
Ⅰ.生ける石なるキリスト(4節、6~8節)
6節のみ言葉はイザヤ書28:16からの引用ですが、ここでイエス様は捨てられた、尊き、隅のかしら石であると記されています。「尊き」とは神のご性質を表しており、「捨てられた」とはイザヤ書53章にあるごとく神と人とに捨てられ、十字架に架けられたことです。
しかしこの方は実に救いのかしら石、すなわち土台石、基礎石です。土台なくして堅固な建物は決して建てられません。その救い主なる方を罪びとである私たちの罪が主イエスを十字架につけてしまったのです。
しかし、主は生ける土台の石、死に打ち勝って復活された生ける石です。この方を信じて、自らの人生をその上に託すときに真に生きる命の人生が始まるのです。
Ⅱ.生ける石なるクリスチャン(5節)
4節の「石」は単数形でイエス様ご自身を表しますが、この5節の「石」は複数形で主イエスを信じる私たちクリスチャンを指しています。そしてその役割は「霊なる祭司」であると言っています。
その具体的内容の1つは、
神と人との間に立って「人々を神につれていく人」です。
伝道や交わりを通して実現していく働きです。
2つ目は「神にささげものをする人」です。そこには3つの神にささげることがあると思います。
- (1)礼拝です。礼拝は神への最高のささげものです。これなしには他のどんな良いことも空しいものとなるでしょう。
- (2)わざ(奉仕)をささげます。神から与えられた賜物(タラント)がどんなに小さくとも、生かし用いましょう。奉仕はサービスといいますが、本当のサービスは喜んで神様にささげるものです。
- (3)自分自身をささげます。献身とは必ずしも牧師になることだけではありません。キリストを信じ救われた人はすべて神への献身者です(ローマ12:1)。
私たちはイエス様を土台とし、それぞれが神殿の石の役割を果たすために上からの力と聖霊の助けを求めましょう。
そしてそれぞれの石である私たちが互いに愛し合い、ゆるし合い、仕え合って神の家を建て上げていきたいと思います。
(参照:エペソ4:11~16)