ごあいさつ
國松 久永(くにまつ ひさなが)主任牧師
1962年2月茨城県水戸市出身。
大学卒業後、大手塾講師として中学受験に関わる。退職後、塾経営、家庭教師として働く。様々な困難を通りつつも支えられ、クリスチャンであった妻や子どもたちに導かれ、2009年4月亀有キリスト福音教会において於保治樹牧師より洗礼を授けて頂き、クリスチャンとなる。
2014年4月牧師である妻を支えるためにも、献身を決意し、東京聖書学院(神学校)に入学。
2018年千葉県香取市にある日本ホーリネス教団佐原キリスト教会と小見川キリスト教会の牧師となる(兼牧)。2021~2023年成田教会牧師(小見川は引き続き兼牧)。
2024年4月より、母教会である亀有キリスト福音教会に、日本ホーリネス教団より派遣され、牧師として遣わされた。
好きなみ言葉は、ヨハネによる福音書3章16節「神は実にその独り子をお与えになったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が、一人も滅びることなく永遠の命を得るためである」 趣味は、何もしないでゆっくりすることと、ゲームをすること。好きな食べ物、カレーライス。
國松 裕子(くにまつ ゆうこ)副牧師
1964年12月東京都葛飾区出身。7歳の時、近所にあった本田キリスト教会の教会学校に通う。14歳の時、洗礼を受け、主イエス・キリストの為に生きたいと祈る。
牧師になりたいと願っていたが、挫折。その後、結婚し3人の子どもが与えられた(1人は里子)。
3人の子どもが自立した時に、再び献身の思いが与えられ2009年東京聖書学院(神学校)に入学。
2013年山形県楯岡キリスト教会牧師。2017年千葉県佐原キリスト教会牧師。2018年からは小見川キリスト教会兼牧。2021年成田教会牧師。
2024年4月から単立亀有キリスト福音教会に、日本ホーリネス教団から牧師として派遣された。
好きなみ言葉:マルコによる福音書10章27節「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」 趣味は、美味しい珈琲とチョコを食べること。全国のカフェ巡りをしたい。
私が教会に来たキッカケ
私は高校を卒業して就職し、ようやく仕事も慣れてきた3年後のこと、会社の健康診断で結核に感染していることがわかり、ただちに療養所での治療生活に入りました。来る日も来る日もベッドの中で天井を見つめていました。悶々としていると色々なことを考えてしまいます。なぜ病気になったのか、仕事は続けられるのか、生きる目的は何か、また死んだらどうなるのか、回答は見つかりません。
そんなある日、同病の女性患者から一冊の新約聖書をもらいました。自分は若く信仰など必要ないと思いつつも、興味半分に読み始めました。カタカナばかりの系図、救い主イエスはおとめマリヤから生まれたこと。病人の癒しなど数々の奇跡の話もあり、とても信じられません。聖書をくれた方にクリスチャンってこの聖書に書いてあることを信じているの、と批判的な質問をしてもいつも笑顔で接してくれました。そんなある日の夕方、たまたま通りかかった面会室から私の名前を挙げて祈っている声が聞こえました。「なぜ私のために」この光景に「ここに何かかがある」と感じました。やがて私もその病院巡回牧師による聖書を学ぶ会へと導かれ、神の存在を意識するようになりました。
「苦しみにあったことは、わたしに良いことです。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことが出来ました。」(詩篇119:72 )病気になったことは人生の大きなマイナスと思っていたことが、病気を通して救い主イエス様に出会うことが出来た。神さまのご計画の中にあったのだと示され、感謝に変わりました。
1年半の長い療養の結果、健康も回復して退院。近くの亀有福音教会を紹介されました。牧師も教会の方々も暖かく迎えてくれました。まもなく青年たちとの交わりや日曜学校の手伝い、また夜の伝道集会に参加するようになり、日曜日が待ち遠しい今までと全く違う教会中心の新しい生活が始まりました。
やがて牧師から洗礼のお勧めを頂くのですが、周りから認められる者になってからと躊躇していました。そんなある日のデボーションで聖書のみ言葉が心に響いてきました。
「あなた方の救われたのは、実に恵みにより信仰によるのである。それはあなた方自身から出たのでたものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。」(エペソ2:8)
私は人から良く思われたいと見栄を張る傲慢な者であったことを示され、悔い改めに導かれました。救われるのは神さまである。ありのままの姿でイエス様の懐に飛び込めばいいのだと。こんな欠けだらけの私のために、イエス様は十字架かかり身代わりの死を遂げて下さった。そして復活し、信じる者に永遠の命を与えて下さる。このことを思った時に今まで経験したことのない言い知れぬ喜びに心が満たされ、神さまのご愛が強く迫ってきました。そして1967年10月に洗礼の恵みに与りました。
23歳の時にイエス様と出会い、今年80歳になりました。「見よ、わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)と、力強い聖書のことばに励まされ平安の中を歩ませていただいています。
キリスト教と無縁の家庭で育った私は、ミッションスクール中学入学を機に、学校近くの教会へ通い始めます。同級生も多く集う中学生礼拝に毎週楽しく出席してましたが、十字架のメッセージを何度聞いてもピンと来ることなく、高校生となってからは大人の礼拝に馴染めず、あっさりと行くのをやめました。
高2の秋、別の教会へ通う友人に誘われ、何気なく行った夜の特別伝道集会で、牧師先生の体験談と罪のメッセージが、強く心に突き刺さります。思えば教会から離れた一年半の間、私の心に満ちていた憎悪な感情や行い、その一つ一つが鮮明に示されて、私は何と罪深い人間なのだろう…、と涙が止まりませんでした。
中学3年間真面目に教会へ通い続け、知識として頭で理解できても、心で信じることのできなかったイエス様の十字架…。それは正に、この私の罪のためだったのだ!と合点したのです。その場で罪を悔い改め、イエス様を信じます!と告白しました。その途端、心が大きな平安と喜びで満たされて、罪が赦されたことを実感した瞬間でした。
後に罪とは、神に背き自己中心に歩む「的外れ」な状態だと知り、いかに自分が自己中だったかを認識します。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来てくださった」聖書
罪深い私を救ってくださった神様の一方的な大きな愛に感謝して、その年のクリスマスに受洗しました。神様に心を向けて歩み出したこの時から、私の人生は一変します。
この素晴らしいイエス様の愛を幼い子どもたちへ伝えたい!と使命が与えられ、受洗以来ずっと教会学校教師として奉仕しながら、教会生活が心の支えとなっています。
どんな時も神様は祈りに応えて最善に導き、すべてにおいて祝福してくださっていること、感謝に絶えません。